日々思うこと

日本在住の研究者です(仕事場を移り、日本に戻ってきました)

製品のクオリティについて:ゲームソフトと「大人の事情」

toyokeizai.net

この記事を読んでふと思い出したこと。

大人になって,というか社会に出てから気づいたことのひとつに,大人の世界というのは,子どものときに思っていたよりもだいぶ「いい加減(子ども的な視点で)」だということがある。

一例として,テレビゲームあるいはPCゲームソフトについて。子どものころ,いわゆる名作と言われるゲームの続編は,多少のブレはあっても当然面白いものだと思っていたことがある。画家や小説家の作品が,基本的には一定のクオリティを保っているのと同じように。

ところが,実際はどうもそうではない。「あの名作の続編なんだから,面白いに違いない!」と意気込んで買って遊んでみたが,つまらない・・という経験がしばしば。具体的なソフト名を挙げることはしないが「え,こんなものなの?」と期待を裏切られ,ひょっとして楽しめない自分の方が悪いのでは?などと自問することもあった。どこの馬の骨とも知れぬゲームであればともかく,名の知れたあのメーカーの,あの名作の続編なのだから,と・・・。

実際には,そのシリーズ自体の路線変更(大抵はマーケティング上の都合によると思われる)に加えて,開発陣の規模・構成の変化,予算やら,クリスマスや夏の商戦に間に合わせるための納期やら,その他極めて多くの要素によって,あるゲームの出来というのは大きく左右される。当然といえば当然だが,大手メーカーになればなるほど,アーティスト的に,満足のいく作品を完成させたうえで世にその価値を問うというスタンスからは乖離してゆき,あくまで企業活動として合理的な判断のうえで各種決定がなされることになる。もっとも,ある条件下における合理的判断の結果として,誰もが認める名作が生まれることもあるわけだが。(ここのところ,ゲームソフトメーカーの内情は詳しくないので,あくまで推察。)

ことほどさように,企業によって世に出される作品・製品は,必ずしもそのクオリティについて,彼らの認識の中であってもベストというわけではない。もちろん,人の命に関わるような製品(食品,自動車,家電製品,医療機器など)については,その安全性については万全を期さねばならないし,実際ほとんどはそうなっていると思う。だが,ソフトウェアや何らかの文章(たとえば調査報告書),学術論文など,多少のバグ,論理の不整合,誤字脱字があっても,それによって製作者の信用が地に堕ちて再起不能になる(あるいは法的に厳しい制裁を受ける)・・という致命的な性質のものではない場合,そのクオリティは他の要素との兼ね合いで犠牲にされることも多いと思われる。

実際に,自分自身が会社勤めをしていたときも,「もう少し粘ればクオリティは向上するのだろうけど・・」と思いつつも,納期や予算その他の都合であきらめざるを得ない場面が幾度かあった。

また,週刊誌に連載されているマンガ作品について,特に連載が長期に及ぶと,以前の設定内容との食い違い・矛盾が生じることがよくある。これもまあ,同じメカニズムによるものだろう。(一部の熱心なファンの中には,こういった矛盾をなんとか説明しようと,インターネットなどで詳細に検討・解釈を行う向きもあるが・・・わかったうえであえて遊びでやっているのでなければ,まあ,意味のないことだろう。)

このように,純粋な子どもからすると時に不可解な「大人の事情」だが・・企業としては,その場その場における合理的な選択の結果ということになる。バグ・ミスの有無やその製品そもそもの出来(ゲームの場合はストーリーやシステムの面白さ)というクオリティと,それ以外の諸々の要素とのバランス。これを見誤った企業はいずれ立ち行かなくなるし,うまく回してゆくことができた企業は繁栄する。

特にコンテンツ系の製品に関しては,デジタルコンテンツ化が進めば進むほど,バグやその他のちょっとしたミスについては,修正パッチの配布等で後日修正を行うのが容易になっている。ともすれば人を傷つける可能性のある「カタチのある製品」と,必ずしもそうではない「コンテンツ系の製品」。発売時に求められるクオリティの差は,今後ますます拡大していくのではないか,とふと思った。