日々思うこと

パリ在住の研究者です。日々ふと考えたことを書き連ねて参ります。

他人様の留学記ではあるが・・・

parisnomemo.me

想像した以上にどうでもいいことしか書かれていなかった。特に最初のやつは「対処」方法としてはどうなの?という気も・・・。というか,どれも課題をしっかりこなすための方法ではまったくない,ただの処世術な件。プロフィールによるとこの方,「フランス政府給費留学生」なのか。。もっともっとフランスでしっかり学問に励んでいる方を多く知っているだけに,こういう記事がそこそこ膾炙しているという状況がなんか嘆かわしい。

というか,この記事いったい誰が参照するのか。実際にフランスで勉強している人からすると,こんな記事は失笑ものだろうし,日本にいる人がこの記事をみて果たして参考になるのだろうか。。

(なんか今回,年寄の愚痴みたいになってしまったが。)

欧州のブドウ収穫日データベース

 

歴史気候学関連で調べ物(ほとんど趣味)をしていて見つけたデータベース。欧州各国の,地域によっては最大過去650年前までのブドウ収穫日の記録が,データベースとして公開されている。歴史気候の再構築を主目的として編纂されたものなので,このデータをそのまま眺めて楽しいかどうかは置いといて・・・よく集めたなあ,と素直に感動。

個人的には,数十年単位で見た場合には品種の変遷(早生化や晩生化)も収穫日に影響してくるはずなので,品種データも(わかる範囲で)併せて整理されているとより参考になるのでは,と勝手に思ったりした次第。

古気候学,気象学などいわゆる理系の研究者らによって構築されたみたいだが,このデータベースについて取り上げた研究論文をよく見ると,共著者にル・ロワ・ラデュリの名前があったりする。

前回の記事,歴史気候学と歴史学との乖離ではないが,かつてのアナール学派の仕事のうち,ル・ロワ・ラデュリが気候に関して行った仕事は,いまは歴史学者ではなく気候学者が担って続けているんだなあ,ということがわかった。アナール学派の系統を現在まで追ってもなぜか誰も定量的な形で気候を扱っていないので不思議に思っていたが,こういうことだったのか。

「歴史気候学」と「気候に関する歴史学」

Historical climatology - Wikipedia

Environmental history - Wikipedia

歴史史料や年輪,湖底・海底堆積物などを駆使して観測機器登場以前の気候を再現する歴史気候学と,気候など環境の変化と人類の活動との連関,相互作用を説明する環境史などの歴史学。素人目にこれらは極めて近いように見えていたが,ちょっと調べてみるとどうもそうではないらしい。

フランス歴史学は,ブローデルや,気候の歴史についての大御所で今で言う歴史気候学とほぼ同様のことを研究していたル・ロワ・ラデュリを生み出しているので,さぞ両者の融合が進んでいると思いきや・・あまりそうではない模様。現在,自分の周りで「気候の関する歴史」をやっている人の大半は,過去の歴史資料に基づいて当時の人々が気候・気象の変化や極端現象をどう捉えていたか描き出すのが主流で,歴史気候学は別世界の話という扱いになっている様子である。

気候に限らず,どうもフランスの環境史研究者は,人間が環境に及ぼした影響に特に重点を置き,やはり歴史史料中心に議論を進める場合が大半であるように見える。先日読んだレビュー記事が正しければ,環境史のルーツは地理学(特に歴史地理学)とのことなので,もっと文書以外のソースを使った研究がなされていてもよいと思ったのだが。。米国や他の欧州諸国だとまた事情が違うのだろうか。

なお,歴史気候学と古気候学の違いがよくわかっていなかったが,前者が基本的に有史以来を対象とするのに対し,後者はそれ以前にずっと遡ることを前提とする模様。まあたまに両者を使い分けていない文章も目にするが。

添加物・農薬・GM食品

『非』国民生活センター:市民運動に気をつけろ!

調べものをしていて見つけたページ。

食品添加物,農薬,遺伝子組換え食品など,警戒したくなる気持ちはわかるし,どうしても嫌な人は避けられるよう表示制度は常識の範囲内で整えられるべきだけど,絶対の悪・不倶戴天の敵として見るのはそろそろやめようという話。

一方で,(一部の)種子会社などが,GM技術が食料問題解決に大きく貢献します,人類にとって必須の技術ですよ,とか言ってるのも,これまたとても胡散臭い話。得てして人というものは是か非かをはっきりさせたがるものではあるのが。。

有機農業だけで世界の人口を養うことはできないけれど,だからといってGM作物に頼らないとダメだってことにはならない。もっとも,化学肥料はいまのところは絶対に必要だが。

「辛さ」のスタンダード化は可能か?

カレー,タイ料理,韓国料理など,日本のエスニック系レストランでは,何倍辛いとか,唐辛子マークいくつ分とかいった形で,メニューにおいて各料理の辛さが指標化されていたり,あるいは注文の際に自身の好みの辛さを選べることが多い。これはこれでもちろん目安として助かるのだが,あくまでそのレストランにおける相対評価に過ぎない。すなわち,たとえばAレストランで唐辛子マーク3つ分とされている料理と,Bレストランで同じくマーク3つ分の料理が,同程度の辛さであるとは限らない。

自分自身は,少なくとも日本で言うところの「激辛」程度であれば,汗をかきながらもなんとか美味しく食べることができる。だが,自分の周囲には,辛いもの(特に唐辛子などカプサイシン系)を一切食べることのできない人間や,ある程度までは大丈夫だがそれを超えると多量の発汗,咳込みなどひどいことになる人間も多い。特に後者の場合,同じレストランで複数回食事をしていればメニュー内の「辛さ」度合いの勝手がわかってくるのだろうが,初めて入ったレストランだと,リスクを避けるために,指標的にもっともマイルドな「辛さ」の料理しか頼めない場合が多いのではないか。初めて入ったレストランでも安心して自身の許容範囲内の辛さの料理を楽しめるよう,辛さのスタンダード化はできないのか・・・?

と,ふと思って調べてみたところ,カプサイシンの濃度を計測して算出する以下のような指標がすでにあるらしい。実際,日本などアジアやフランスではあまり目にしないが,海外(おそらく米国など?)で販売されているホットソースには,このスコヴィル値が記載されていることが多い模様である。

スコヴィル値 - Wikipedia

100とか500からはじまって,最終的には1600万とか160億とか,ドラゴンボールの戦闘力やキン肉マンの超人強度的な上昇ぶりだが・・。ともかく,この数値を利用すれば,カプサイシンに限っての話ではあるが,辛さのナショナル・スタンダード,果てはグローバル・スタンダードの策定も可能となる。半分馬鹿げた話に思えるかもしれないが,最近の外食店舗,特にチェーン店のメニューにおける熱量,ナトリウム(塩分)含有量,グルテンフリーか否かなどの表示の動きからみても,法的な義務化の有無は別にして,一考に値するのではないかと思う。

辛いものが苦手であれば最初から辛い料理を頼むな,というのはやや乱暴である。どの程度までの辛さであれば問題なく料理を楽しむことができるかを把握したうえで,その範囲内で個々人が食事を楽しめるようにする・・という考え方も,ありうるのではと思った次第である。個人的には,影響の深刻さは別にして,グルテンアレルギーの人間よりも,あまりに辛いとダメだが可能な範囲でスパイシーさを楽しみたい人間の方が,日本では数が多いと思うのだが。(もちろん,計測・表示にかかるコストとの兼ね合いにはなるだろうが。)

フランスの書店事情?

フランスに住んでいてふと思ったこと。

学術・文学・その他問わず,質・量ともに世界有数の出版文化を誇るにもかかわらず,なぜか書店の数が日本に比べると異様に少ないような気がする。学生の数も多く,メトロに乗っていると必ずといってよいほど車内で本を読んでいる人を目にする・・。書籍の需要はかなり多いと思うのだが,皆どこで本を購入しているのだろうか。Amazonのようなオンライン書店利用者も増えてはいるようだが,例えば日本に比べて断然オンライン購入が多いというわけでもない様子。それどころか,逆にアメリカ的資本主義の象徴のように映るのか,Amazonは決して使わないという人種も一定程度存在する模様。

パリで大規模な書店というと,Gibert Joseph(古本も売っているジュンク堂のような感じ),Gibert Jeune(同じく新品・古本を一緒に売っている書店。テーマごとに複数店舗に分かれる),それに FNAC(日本でいうとツタヤみたいな感じ)くらいで,あるにはあるのだが数としてはまったく少ない。なお,知人の学生はだいたいGibert JosephかGibert Jeune,あるいはAmazonで研究書を購入しているようだが。

街をよくよく観察すると,たしかに新品・古本問わず小規模な書店がバラバラ,あちこちに存在する。だが,数は多くとも如何せん小規模,それに神保町のような大きな書店街が形成されているわけでもないため,目的の本を探すためにあちこち動いて回らねばならない状況となっている。駅ナカや駅前にほぼ必ず書店があり,さらにジュンク堂や紀伊国屋のような大規模書店が大きな都市には必ず複数存在する日本に比べると,かなりの違和感(および不便さ)を感じるのだが・・。これは世界的にはむしろ日本の方が例外ということなのだろうか。。

アナール学派と「環境決定論」

 

フランス歴史学革命―アナール学派 1929‐89年 (NEW HISTORY)

フランス歴史学革命―アナール学派 1929‐89年 (NEW HISTORY)

 

俗に言われる「アナール学派」についての歴史を平易に解説した本。(平易とはいっても,歴史「学」の研究書に馴染みが薄い人にはたぶん難解だろうが。)

アナール学派については,明確に定義できるような集団はもはや存在しないというのが一般的見解だと理解しているが,とりあえずそれは置いておく。

ブローデルとそれ以降の世代のギャップを表す言葉として「地下室から屋根裏に」と書かれていたのが面白かった。要するに,生態環境・経済的土台など下部構造ではなく,文化的な上部構造に焦点を置いて研究する人間が再び多くなったということ。確かに,いまのフランスの研究者をざっと(あくまで,ざっと)見渡す限りでは,ブローデル的にダイナミックに自然環境と人間社会の様相(経済,政治,文化)を絡めて議論する人はあまり見当たらない気がする。(門外漢の勝手なイメージなので,違っていたら申し訳ありません。)

それどころか,そういう議論をした途端に「環境決定論」というレッテルを貼って蛇蝎の如く警戒される風潮があるように思う。これは日本の歴史学・(人文)地理学あたりでも同じかもしれない。結局,そういう議論をしたい場合には「環境可能論」という,結局どういうことなのかよくわからないお茶を濁したような言い方になるようだが・・。

そもそも物事というのは「決定的であるか,ないか」という二値的なものではない場合が大半では。ある要素が,その場その場でどの程度クリティカルであったのか(なかったのか)というのを丁寧に(可能な限り量的に)説明してくことが大事のような気がするのだが。さらに言うと,人間集団に比べたら自然環境の方がまだカオス的度合が少ないと個人的には思っているので,自然環境が人間社会に「どの程度」影響・制約を与えたのかを議論することは,いまだに有意義で,かつ実証的・科学的アプローチを相対的にはとりやすい気がするのだが。