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日々思うこと

パリ在住の研究者です。日々ふと考えたことを書き連ねて参ります。

メジャーとローカル:ローカルをメジャーにする、あるいはローカルであることに価値がある?

特に食品について、いわゆるグローバル企業や大企業の製品に対して、アンチというか消極的なスタンスをとるのがファッションとなっている。イタリアから始まったスローフード運動もそうだし、穀物メジャーという言葉を聞いてあまりポジティブなイメージを持たない人が多いのもその表れだろう。

それらの代替としてローカルなものを取り上げる際、それらを「発掘」して宣伝し、都市部の物産展やデパート、農村部の道の駅など販売場所は問わず、「よいものがローカルなままで埋もれている。つくり手、製法の担い手はこういった方々で・・」といった説明とともに商業ベース、経済ベースに乗せようと試みることが多い。

当然ながらローカルな産品といっても多種多彩なわけで、それらがメジャーになるには(1) 商業的にプロモーションする対象産品として選定される、(2) 消費者から一定の評価を受ける、という2つのハードルを超える必要がある。ITの発達によって、(一昔前にAmazonなど「ロングテール」という言葉が流行ったように)物理的に限られた棚を熾烈に奪い合うという状況はやや緩和されたかもしれないが、消費期限のある生鮮食品の場合、いまだ競争は激しい。

本当に消費者に評価される価値、品質を有する産品は、これらの競争を勝ち残って見事メジャー化を果たすことになる。(ただし、消費者は飽きっぽくもあるので、どの程度メジャーの舞台で頑張っていられるかはわからないが。。)

他方、場合によっては、その産品の品質というよりも「ローカルであること」自体がブランド的な役割を果たし、消費者の人気を得るということもありうる。いや、もともと優れた品質を持つものは、とっくにメジャー化している可能性が高く、そうでなくいまだローカルなままでいるものは、品質のみでそこまで評価を得られるわけではない場合がほとんどだろう。そこに「ローカルである」というプレミアムがついて、はじめて消費者に受け入れられる、という流れなのだと思う。

だが、この場合、一度メジャーになってしまうと、今度は「ローカルである」という武器が使いにくくなる。名前を言えば大半の人間が知っている(これはもはや「ローカル」とは言い難い)状況になると、今度はメジャーの舞台で選りすぐりの強豪(競合)相手と戦わねばならない。さらに、かつてのその産品のように「ローカル」というゲタを履いた多種多様な産品が、後ろからは追いかけてくる。

それでも勝ち残ってゆくには、(1) 品質で勝負するとともにマーケティング努力も重ね、グローバル企業、大企業の製品に負けないよう戦ってゆく、(2) 実はもはや使えないはずの「ローカル」という武器を身にまとい続け、プレミアムの効果を何とか保持し続ける、の2つしかない。(2) の場合、(事例としてはかなり多いと思うが)もはやローカルというのが冒頭書いたとおりただのファッションとなってしまい、本当にローカルなものとはどういうものなのか問われることのないまま、ただ漠然とアンチグローバル企業・大企業の動きに乗っかって世間を漂ってゆくだけとなり、「ローカル」産品の大漂流ともいえる状況が起きうるのではないか?(あるいは、もう起きている?)

もっとも、「ローカルである」ことにプレミアムを見出して消費する、というのも消費者の自己満足といえば自己満足であり、大漂流が発生しようとも、しなくとも、状況は対して変わらないのではないかという気もするのだけど。。

(※なお、フランスのシャンパーニュやカマンベールチーズなど、ローカルな呼称とその裏付けのある品質を有するけれど、すでに世界中に市場が広がっているものは、ここでいう「ローカル」には含めていません。)