日々思うこと

パリ在住の研究者です。日々ふと考えたことを書き連ねて参ります。

背水の陣

漢楚軍談(項羽と劉邦の戦い)をあらましを思い浮かべていてふと思ったこと。

そういえば,「背水の陣」を布いて戦った人間って,韓信にしても項羽にしても,その場では勝利していても,結局最終的には身を滅ぼしてるんだよな・・。戦術の達人だったとしても,戦略(あるいは処世術)の立て方についてはいまいちなこともある,と。

何が言いたいのかというと,人生においては,リスクを怖がってジリ貧になってもしょうがないけど,とはいえ「背水の陣」的な行動(失敗すれば後がないような起業,起業)も極力とらないに越したことはない,ってこと。

最近は日本で真田丸が放映されているせいか,石田三成とか真田信繁に注目が集まっているみたいだが,徳川家康みたいな生き方が結局は理想なのか。ホトトギスが鳴くのを待っている間に何もできずに終わる可能性もあるけれど。

戦国話のついでに言うと,秀吉も,ある程度出世して以降は絶対に危ない橋を渡るような戦いはしなかったってのは有名な話。事前工作を尽くしたうえで相手よりも多い兵力で必ず戦っていた。話としてはつまらないかもしれないが,結局は常にこういうポジションでいられるよう,先を考えて備えておくのが大事なんだなっていう話。

優れた人文系研究を行うための「才能」

語学や数理計算能力,プログラミングなどは,覚えの早さなどその才能の有無がわりとわかりやすいスキルだと思う。

他方,人文系研究(文学,歴史,思想 etc.)で優れた業績を残すための才能,スキルとはどういうものなのか・・。資料を読み込む力(スピードおよび理解力)なのか,優れたアイデアを優れた文章で表現する力なのか・・。ちゃんと整理・把握できていないのだが,少なくとも自分には,そういったスキル・才能が(仮に存在するとすれば)乏しいことは自覚している。ちなみに,自分の専門はガチの人文系ではないので,自虐を込めて悲観的に書いているわけではないが。

人文系研究は他人様の著作を読むものであって,自分でやるものではないなあ・・と改めて認識しつつある今日この頃。

余談:同じような表現として「棚田は他人が耕しているのを見るものであって,自分で耕すものではない」 (by. 知人の農業関係者)というのがあるな。

ドラえもん狩り@南アジア

asia.nikkei.com

要するに,子どもにドラえもんを見せると,主に以下の3点で教育上よくないということらしい:

(1)のび太の影響で,反抗的になったり,素行が悪くなったりする。
(2)ひみつ道具がなんでも解決してくれる非現実的世界の描写の影響で,子どもの自立心を奪う。
(3)しずかちゃんと仲良く遊んでる姿が道徳的にけしからん。

(1)は,日本で以前クレヨンしんちゃんとかが問題にされたようなものか。もっとひどいアニメ・映画は山ほどある気がするが・・記事にもあるとおり,それだけドラえもんが南アジアでもポピュラーってことの裏返しか。
(2)は,むしろまったく逆で,道具だけあっても使い方がダメだと結局ダメだよってのがドラえもんの基本路線のような気がするが。。
(3)は,まあ文化とか価値観の違いか。。お風呂のシーンとかそういうのはともかく,普段のシーンは,これまたもっとひどいアニメや映画がある気も・・。

個人的には,動力が実は核融合発電だとか,そういう隠れ設定の方がだいぶ問題のような気がするが。藤子不二雄(特にF)の作品中に時折仕込まれている毒・皮肉は,そんなに単純なものじゃないよ。(地球はかいばくだんとか,どくさいスイッチとかはまだ序の口。)藤子・F・不二雄少年SF短編集とかを読むとそれがよくわかると思うのでオススメ。

追記: あと,パキスタンとかバングラでは,ドラえもんが「ヒンディー語で」放映されているからというのも問題になっている模様。これはドラえもんの内容とはまったく関係ない,いわばとばっちりだが。

金融バブルとボディビルディング

マネーも筋肉も,本来はそれぞれ経済活動促進あるいは運動・労働のための手段であるはずなのに,いつの間にかそれが自己目的化して,意味のないマネー増殖・筋肉増強に明け暮れてしまっている・・・という点で,似ているような気がする。

ボディビルダーの筋肉は実際の肉体労働やスポーツで役に立たず,むしろ脆弱であるように,金融バブルが起きても実体経済には貢献せず,むしろ行き着く先はリーマン・ショックのような経済崩壊。。

 

人文系研究者における「アンチ民間企業」の風潮

アカデミズム、特に人文科学系の研究者や学生と話していると、たまに「民間企業から資金をもらって研究するなんてけしからん」といった意見を耳にすることがある。より正確には、「その企業に都合のよいような結果を出しているのではないか」ということのようである。具体的な例としては(社名を出してしまうが)味の素から研究資金を得て行われた食文化関連の研究があると某地域研究者に話したところ、内容もろくに聞かず、それだけで学術研究として信用できないといったニュアンスのことを言われたことがある。

もちろん、場合によっては資金提供を行った企業にとって喜ばしいような結果となっていることも(残念ながら)あるのだろうが、基本的にはケースバイケースであろう。その分野の専門知識を持つ人間が客観的に判断を下すべきなのに、内容も聞かずに(しかも専門外なのに)すべてが怪しいと一方的に断定してしまうのは、いかがなものかと思う。それを言うのであれば、科研費でも給与そのものでも何であっても、資金の出所は政府(国家)なのだから、その国家に対して都合のよいような研究結果になっていないか?という疑問は出さないのか。中世の欧州における(今で言うところの)自然科学研究は多くが金持ちの道楽として行われていたようだが、そういった自前の資金で行われた研究以外、すべてを疑うべきではないのか。

人文系の一部には、どうやら民間企業を理由なく敵視する傾向があるように感じる。特に、大企業や多国籍企業、特に世間一般的にもネガティブなイメージを持たれがちの企業に対して、同じく疑いの目で見る傾向が強いようだ。もともと、人文科学の利点・レゾンデートルは、社会一般の価値観がどうであろうと、古典や歴史上の文献、あるいは徹底的な思索にもとづいて、人類にとって普遍的な言説・価値観を提示することが世の中で唯一可能であることだと思うのだが・・・。そういったところは世間一般と同じ価値観で眺めるのか。。

ちなみに、当然といえば当然だが、民間企業など実業界と比較的近い位置にある工学系、農学系の場合はそういったことはほぼまったくなく、ちゃんと研究内容を見てから判断する人しか(少なくとも私の周りには)いない。その代りに、たまに「社会に対して直接的に役立たない研究には存在意義が感じられない」などと、人文科学全体を敵に回しかねないぎょっとするようなことを言う奴がたまにいたりもするのだが。。。

メジャーとローカル:ローカルをメジャーにする、あるいはローカルであることに価値がある?

特に食品について、いわゆるグローバル企業や大企業の製品に対して、アンチというか消極的なスタンスをとるのがファッションとなっている。イタリアから始まったスローフード運動もそうだし、穀物メジャーという言葉を聞いてあまりポジティブなイメージを持たない人が多いのもその表れだろう。

それらの代替としてローカルなものを取り上げる際、それらを「発掘」して宣伝し、都市部の物産展やデパート、農村部の道の駅など販売場所は問わず、「よいものがローカルなままで埋もれている。つくり手、製法の担い手はこういった方々で・・」といった説明とともに商業ベース、経済ベースに乗せようと試みることが多い。

当然ながらローカルな産品といっても多種多彩なわけで、それらがメジャーになるには(1) 商業的にプロモーションする対象産品として選定される、(2) 消費者から一定の評価を受ける、という2つのハードルを超える必要がある。ITの発達によって、(一昔前にAmazonなど「ロングテール」という言葉が流行ったように)物理的に限られた棚を熾烈に奪い合うという状況はやや緩和されたかもしれないが、消費期限のある生鮮食品の場合、いまだ競争は激しい。

本当に消費者に評価される価値、品質を有する産品は、これらの競争を勝ち残って見事メジャー化を果たすことになる。(ただし、消費者は飽きっぽくもあるので、どの程度メジャーの舞台で頑張っていられるかはわからないが。。)

他方、場合によっては、その産品の品質というよりも「ローカルであること」自体がブランド的な役割を果たし、消費者の人気を得るということもありうる。いや、もともと優れた品質を持つものは、とっくにメジャー化している可能性が高く、そうでなくいまだローカルなままでいるものは、品質のみでそこまで評価を得られるわけではない場合がほとんどだろう。そこに「ローカルである」というプレミアムがついて、はじめて消費者に受け入れられる、という流れなのだと思う。

だが、この場合、一度メジャーになってしまうと、今度は「ローカルである」という武器が使いにくくなる。名前を言えば大半の人間が知っている(これはもはや「ローカル」とは言い難い)状況になると、今度はメジャーの舞台で選りすぐりの強豪(競合)相手と戦わねばならない。さらに、かつてのその産品のように「ローカル」というゲタを履いた多種多様な産品が、後ろからは追いかけてくる。

それでも勝ち残ってゆくには、(1) 品質で勝負するとともにマーケティング努力も重ね、グローバル企業、大企業の製品に負けないよう戦ってゆく、(2) 実はもはや使えないはずの「ローカル」という武器を身にまとい続け、プレミアムの効果を何とか保持し続ける、の2つしかない。(2) の場合、(事例としてはかなり多いと思うが)もはやローカルというのが冒頭書いたとおりただのファッションとなってしまい、本当にローカルなものとはどういうものなのか問われることのないまま、ただ漠然とアンチグローバル企業・大企業の動きに乗っかって世間を漂ってゆくだけとなり、「ローカル」産品の大漂流ともいえる状況が起きうるのではないか?(あるいは、もう起きている?)

もっとも、「ローカルである」ことにプレミアムを見出して消費する、というのも消費者の自己満足といえば自己満足であり、大漂流が発生しようとも、しなくとも、状況は対して変わらないのではないかという気もするのだけど。。

(※なお、フランスのシャンパーニュやカマンベールチーズなど、ローカルな呼称とその裏付けのある品質を有するけれど、すでに世界中に市場が広がっているものは、ここでいう「ローカル」には含めていません。)

 

 

 

 

対談:チョムスキーvsフーコー

www.youtube.com

チョムスキーとフーコーの対談(日本語字幕付き)。こんな対談が以前行われていたとは。二人ともまず雰囲気というか,気迫がすごい。それぞれ英語・フランス語で話しているせいか,面白いながらもどこか噛み合っていないような気もするけど・・。