日々思うこと

日本在住の研究者です(仕事場を移り、日本に戻ってきました)

ドラえもん狩り@南アジア

asia.nikkei.com

要するに,子どもにドラえもんを見せると,主に以下の3点で教育上よくないということらしい:

(1)のび太の影響で,反抗的になったり,素行が悪くなったりする。
(2)ひみつ道具がなんでも解決してくれる非現実的世界の描写の影響で,子どもの自立心を奪う。
(3)しずかちゃんと仲良く遊んでる姿が道徳的にけしからん。

(1)は,日本で以前クレヨンしんちゃんとかが問題にされたようなものか。もっとひどいアニメ・映画は山ほどある気がするが・・記事にもあるとおり,それだけドラえもんが南アジアでもポピュラーってことの裏返しか。
(2)は,むしろまったく逆で,道具だけあっても使い方がダメだと結局ダメだよってのがドラえもんの基本路線のような気がするが。。
(3)は,まあ文化とか価値観の違いか。。お風呂のシーンとかそういうのはともかく,普段のシーンは,これまたもっとひどいアニメや映画がある気も・・。

個人的には,動力が実は核融合発電だとか,そういう隠れ設定の方がだいぶ問題のような気がするが。藤子不二雄(特にF)の作品中に時折仕込まれている毒・皮肉は,そんなに単純なものじゃないよ。(地球はかいばくだんとか,どくさいスイッチとかはまだ序の口。)藤子・F・不二雄少年SF短編集とかを読むとそれがよくわかると思うのでオススメ。

追記: あと,パキスタンとかバングラでは,ドラえもんが「ヒンディー語で」放映されているからというのも問題になっている模様。これはドラえもんの内容とはまったく関係ない,いわばとばっちりだが。

金融バブルとボディビルディング

マネーも筋肉も,本来はそれぞれ経済活動促進あるいは運動・労働のための手段であるはずなのに,いつの間にかそれが自己目的化して,意味のないマネー増殖・筋肉増強に明け暮れてしまっている・・・という点で,似ているような気がする。

ボディビルダーの筋肉は実際の肉体労働やスポーツで役に立たず,むしろ脆弱であるように,金融バブルが起きても実体経済には貢献せず,むしろ行き着く先はリーマン・ショックのような経済崩壊。。

 

人文系研究者における「アンチ民間企業」の風潮

アカデミズム、特に人文科学系の研究者や学生と話していると、たまに「民間企業から資金をもらって研究するなんてけしからん」といった意見を耳にすることがある。より正確には、「その企業に都合のよいような結果を出しているのではないか」ということのようである。具体的な例としては(社名を出してしまうが)味の素から研究資金を得て行われた食文化関連の研究があると某地域研究者に話したところ、内容もろくに聞かず、それだけで学術研究として信用できないといったニュアンスのことを言われたことがある。

もちろん、場合によっては資金提供を行った企業にとって喜ばしいような結果となっていることも(残念ながら)あるのだろうが、基本的にはケースバイケースであろう。その分野の専門知識を持つ人間が客観的に判断を下すべきなのに、内容も聞かずに(しかも専門外なのに)すべてが怪しいと一方的に断定してしまうのは、いかがなものかと思う。それを言うのであれば、科研費でも給与そのものでも何であっても、資金の出所は政府(国家)なのだから、その国家に対して都合のよいような研究結果になっていないか?という疑問は出さないのか。中世の欧州における(今で言うところの)自然科学研究は多くが金持ちの道楽として行われていたようだが、そういった自前の資金で行われた研究以外、すべてを疑うべきではないのか。

人文系の一部には、どうやら民間企業を理由なく敵視する傾向があるように感じる。特に、大企業や多国籍企業、特に世間一般的にもネガティブなイメージを持たれがちの企業に対して、同じく疑いの目で見る傾向が強いようだ。もともと、人文科学の利点・レゾンデートルは、社会一般の価値観がどうであろうと、古典や歴史上の文献、あるいは徹底的な思索にもとづいて、人類にとって普遍的な言説・価値観を提示することが世の中で唯一可能であることだと思うのだが・・・。そういったところは世間一般と同じ価値観で眺めるのか。。

ちなみに、当然といえば当然だが、民間企業など実業界と比較的近い位置にある工学系、農学系の場合はそういったことはほぼまったくなく、ちゃんと研究内容を見てから判断する人しか(少なくとも私の周りには)いない。その代りに、たまに「社会に対して直接的に役立たない研究には存在意義が感じられない」などと、人文科学全体を敵に回しかねないぎょっとするようなことを言う奴がたまにいたりもするのだが。。。

メジャーとローカル:ローカルをメジャーにする、あるいはローカルであることに価値がある?

特に食品について、いわゆるグローバル企業や大企業の製品に対して、アンチというか消極的なスタンスをとるのがファッションとなっている。イタリアから始まったスローフード運動もそうだし、穀物メジャーという言葉を聞いてあまりポジティブなイメージを持たない人が多いのもその表れだろう。

それらの代替としてローカルなものを取り上げる際、それらを「発掘」して宣伝し、都市部の物産展やデパート、農村部の道の駅など販売場所は問わず、「よいものがローカルなままで埋もれている。つくり手、製法の担い手はこういった方々で・・」といった説明とともに商業ベース、経済ベースに乗せようと試みることが多い。

当然ながらローカルな産品といっても多種多彩なわけで、それらがメジャーになるには(1) 商業的にプロモーションする対象産品として選定される、(2) 消費者から一定の評価を受ける、という2つのハードルを超える必要がある。ITの発達によって、(一昔前にAmazonなど「ロングテール」という言葉が流行ったように)物理的に限られた棚を熾烈に奪い合うという状況はやや緩和されたかもしれないが、消費期限のある生鮮食品の場合、いまだ競争は激しい。

本当に消費者に評価される価値、品質を有する産品は、これらの競争を勝ち残って見事メジャー化を果たすことになる。(ただし、消費者は飽きっぽくもあるので、どの程度メジャーの舞台で頑張っていられるかはわからないが。。)

他方、場合によっては、その産品の品質というよりも「ローカルであること」自体がブランド的な役割を果たし、消費者の人気を得るということもありうる。いや、もともと優れた品質を持つものは、とっくにメジャー化している可能性が高く、そうでなくいまだローカルなままでいるものは、品質のみでそこまで評価を得られるわけではない場合がほとんどだろう。そこに「ローカルである」というプレミアムがついて、はじめて消費者に受け入れられる、という流れなのだと思う。

だが、この場合、一度メジャーになってしまうと、今度は「ローカルである」という武器が使いにくくなる。名前を言えば大半の人間が知っている(これはもはや「ローカル」とは言い難い)状況になると、今度はメジャーの舞台で選りすぐりの強豪(競合)相手と戦わねばならない。さらに、かつてのその産品のように「ローカル」というゲタを履いた多種多様な産品が、後ろからは追いかけてくる。

それでも勝ち残ってゆくには、(1) 品質で勝負するとともにマーケティング努力も重ね、グローバル企業、大企業の製品に負けないよう戦ってゆく、(2) 実はもはや使えないはずの「ローカル」という武器を身にまとい続け、プレミアムの効果を何とか保持し続ける、の2つしかない。(2) の場合、(事例としてはかなり多いと思うが)もはやローカルというのが冒頭書いたとおりただのファッションとなってしまい、本当にローカルなものとはどういうものなのか問われることのないまま、ただ漠然とアンチグローバル企業・大企業の動きに乗っかって世間を漂ってゆくだけとなり、「ローカル」産品の大漂流ともいえる状況が起きうるのではないか?(あるいは、もう起きている?)

もっとも、「ローカルである」ことにプレミアムを見出して消費する、というのも消費者の自己満足といえば自己満足であり、大漂流が発生しようとも、しなくとも、状況は対して変わらないのではないかという気もするのだけど。。

(※なお、フランスのシャンパーニュやカマンベールチーズなど、ローカルな呼称とその裏付けのある品質を有するけれど、すでに世界中に市場が広がっているものは、ここでいう「ローカル」には含めていません。)

 

 

 

 

対談:チョムスキーvsフーコー

www.youtube.com

チョムスキーとフーコーの対談(日本語字幕付き)。こんな対談が以前行われていたとは。二人ともまず雰囲気というか,気迫がすごい。それぞれ英語・フランス語で話しているせいか,面白いながらもどこか噛み合っていないような気もするけど・・。

マゼラン艦隊最大のボトルネック

 

ポルトガル人マゼランの世界一周航海に同行した記録が前半にあり,面白い。もっともマゼラン自身は,よく知られているように,フィリピン・セブ島付近の小島マクタン島で原住民と戦って殺されてしまう。

世界一周航海・・とは言いつつも,実際の目的は香料諸島ことモルッカ諸島への西回りルート確立だったのだが,その一番のボトルネックは,栄養失調や壊血病,嵐や暑さ・寒さなど慣れない気候,各地の原住民の攻撃・・などではなく,艦隊の構成員同士のドロッドロの内紛だった模様。

その航海技術と統率力,豊富な経験を買われた「ポルトガル人」マゼラン一派と,スペイン人幹部たちの対立は,航海中ことあるごとに顕在化し,とうとうマゼラン海峡(と名付けられた海峡)通過中,艦隊を構成する船のうち1隻が勝手にスペインに戻ってしまう事態に至る。

冒頭に挙げたマゼランの死も,直接は原住民に殺害されたのだが・・彼が少数の兵で原住民に囲まれているときに,残りの人員とともに余所で待機していたスペイン人幹部は救援を出さなかったようで,いわば見殺しにしたともとれる状況だったらしい。

ちなみにその後はフアン・セバスティアン・エルカーノが艦隊を率いて,なんとかスペインまで戻って世界一周を果たす。出航当時5隻あった船は1隻に,270人いた乗組員は18人になっていた。

まったくもって同床異夢というか,ここまで船頭多くして・・的な状況であったとは。。当時のスペインとしては,国を挙げた一大プロジェクトであったはずなのに。。。まあ,国家プロジェクト(平たく言うと公共事業)の幹部同士で意識が食い違っていがみ合うのは,現在でもいまだによくある話なので,馬鹿にはできないけれど。

そういえば,藤子・F・不二雄のSF短編集の中に,宇宙船内の船員同士がいさかい・もめごとを起こさないように,船員として紛れこんで意図的に皆から憎まれることをやらかすプロの「にくまれ屋」の話があったのを思い出した。船員たちの「共通の敵」を演じることで,あえて皆を団結させるという役割。なかなか高収入のような描写だったが・・。

特に気が合うわけでも,団結する目的を持っているわけでもない複数の人間が,閉鎖された空間で長期間寝食をともにする。揉め事の種がもともとなかったとしても,円満にやっていくのは難しいだろうに,ましてスペインとポルトガルの対立(あるいはスペイン人幹部の「よそ者」に対する不満)があったとすると,腕利きの「にくまれ屋」が何人いても足りないだろうな・・。

そういえば,同じような大船団を率いた長期航海として,中国は鄭和の遠征が思い浮かぶが,果たしてその船団内ではどのような人間模様が繰り広げられていたのだろうか・・・。

製品のクオリティについて:ゲームソフトと「大人の事情」

toyokeizai.net

この記事を読んでふと思い出したこと。

大人になって,というか社会に出てから気づいたことのひとつに,大人の世界というのは,子どものときに思っていたよりもだいぶ「いい加減(子ども的な視点で)」だということがある。

一例として,テレビゲームあるいはPCゲームソフトについて。子どものころ,いわゆる名作と言われるゲームの続編は,多少のブレはあっても当然面白いものだと思っていたことがある。画家や小説家の作品が,基本的には一定のクオリティを保っているのと同じように。

ところが,実際はどうもそうではない。「あの名作の続編なんだから,面白いに違いない!」と意気込んで買って遊んでみたが,つまらない・・という経験がしばしば。具体的なソフト名を挙げることはしないが「え,こんなものなの?」と期待を裏切られ,ひょっとして楽しめない自分の方が悪いのでは?などと自問することもあった。どこの馬の骨とも知れぬゲームであればともかく,名の知れたあのメーカーの,あの名作の続編なのだから,と・・・。

実際には,そのシリーズ自体の路線変更(大抵はマーケティング上の都合によると思われる)に加えて,開発陣の規模・構成の変化,予算やら,クリスマスや夏の商戦に間に合わせるための納期やら,その他極めて多くの要素によって,あるゲームの出来というのは大きく左右される。当然といえば当然だが,大手メーカーになればなるほど,アーティスト的に,満足のいく作品を完成させたうえで世にその価値を問うというスタンスからは乖離してゆき,あくまで企業活動として合理的な判断のうえで各種決定がなされることになる。もっとも,ある条件下における合理的判断の結果として,誰もが認める名作が生まれることもあるわけだが。(ここのところ,ゲームソフトメーカーの内情は詳しくないので,あくまで推察。)

ことほどさように,企業によって世に出される作品・製品は,必ずしもそのクオリティについて,彼らの認識の中であってもベストというわけではない。もちろん,人の命に関わるような製品(食品,自動車,家電製品,医療機器など)については,その安全性については万全を期さねばならないし,実際ほとんどはそうなっていると思う。だが,ソフトウェアや何らかの文章(たとえば調査報告書),学術論文など,多少のバグ,論理の不整合,誤字脱字があっても,それによって製作者の信用が地に堕ちて再起不能になる(あるいは法的に厳しい制裁を受ける)・・という致命的な性質のものではない場合,そのクオリティは他の要素との兼ね合いで犠牲にされることも多いと思われる。

実際に,自分自身が会社勤めをしていたときも,「もう少し粘ればクオリティは向上するのだろうけど・・」と思いつつも,納期や予算その他の都合であきらめざるを得ない場面が幾度かあった。

また,週刊誌に連載されているマンガ作品について,特に連載が長期に及ぶと,以前の設定内容との食い違い・矛盾が生じることがよくある。これもまあ,同じメカニズムによるものだろう。(一部の熱心なファンの中には,こういった矛盾をなんとか説明しようと,インターネットなどで詳細に検討・解釈を行う向きもあるが・・・わかったうえであえて遊びでやっているのでなければ,まあ,意味のないことだろう。)

このように,純粋な子どもからすると時に不可解な「大人の事情」だが・・企業としては,その場その場における合理的な選択の結果ということになる。バグ・ミスの有無やその製品そもそもの出来(ゲームの場合はストーリーやシステムの面白さ)というクオリティと,それ以外の諸々の要素とのバランス。これを見誤った企業はいずれ立ち行かなくなるし,うまく回してゆくことができた企業は繁栄する。

特にコンテンツ系の製品に関しては,デジタルコンテンツ化が進めば進むほど,バグやその他のちょっとしたミスについては,修正パッチの配布等で後日修正を行うのが容易になっている。ともすれば人を傷つける可能性のある「カタチのある製品」と,必ずしもそうではない「コンテンツ系の製品」。発売時に求められるクオリティの差は,今後ますます拡大していくのではないか,とふと思った。