日々思うこと

日本在住の研究者です(仕事場を移り、日本に戻ってきました)

マゼラン艦隊最大のボトルネック

 

ポルトガル人マゼランの世界一周航海に同行した記録が前半にあり,面白い。もっともマゼラン自身は,よく知られているように,フィリピン・セブ島付近の小島マクタン島で原住民と戦って殺されてしまう。

世界一周航海・・とは言いつつも,実際の目的は香料諸島ことモルッカ諸島への西回りルート確立だったのだが,その一番のボトルネックは,栄養失調や壊血病,嵐や暑さ・寒さなど慣れない気候,各地の原住民の攻撃・・などではなく,艦隊の構成員同士のドロッドロの内紛だった模様。

その航海技術と統率力,豊富な経験を買われた「ポルトガル人」マゼラン一派と,スペイン人幹部たちの対立は,航海中ことあるごとに顕在化し,とうとうマゼラン海峡(と名付けられた海峡)通過中,艦隊を構成する船のうち1隻が勝手にスペインに戻ってしまう事態に至る。

冒頭に挙げたマゼランの死も,直接は原住民に殺害されたのだが・・彼が少数の兵で原住民に囲まれているときに,残りの人員とともに余所で待機していたスペイン人幹部は救援を出さなかったようで,いわば見殺しにしたともとれる状況だったらしい。

ちなみにその後はフアン・セバスティアン・エルカーノが艦隊を率いて,なんとかスペインまで戻って世界一周を果たす。出航当時5隻あった船は1隻に,270人いた乗組員は18人になっていた。

まったくもって同床異夢というか,ここまで船頭多くして・・的な状況であったとは。。当時のスペインとしては,国を挙げた一大プロジェクトであったはずなのに。。。まあ,国家プロジェクト(平たく言うと公共事業)の幹部同士で意識が食い違っていがみ合うのは,現在でもいまだによくある話なので,馬鹿にはできないけれど。

そういえば,藤子・F・不二雄のSF短編集の中に,宇宙船内の船員同士がいさかい・もめごとを起こさないように,船員として紛れこんで意図的に皆から憎まれることをやらかすプロの「にくまれ屋」の話があったのを思い出した。船員たちの「共通の敵」を演じることで,あえて皆を団結させるという役割。なかなか高収入のような描写だったが・・。

特に気が合うわけでも,団結する目的を持っているわけでもない複数の人間が,閉鎖された空間で長期間寝食をともにする。揉め事の種がもともとなかったとしても,円満にやっていくのは難しいだろうに,ましてスペインとポルトガルの対立(あるいはスペイン人幹部の「よそ者」に対する不満)があったとすると,腕利きの「にくまれ屋」が何人いても足りないだろうな・・。

そういえば,同じような大船団を率いた長期航海として,中国は鄭和の遠征が思い浮かぶが,果たしてその船団内ではどのような人間模様が繰り広げられていたのだろうか・・・。

製品のクオリティについて:ゲームソフトと「大人の事情」

toyokeizai.net

この記事を読んでふと思い出したこと。

大人になって,というか社会に出てから気づいたことのひとつに,大人の世界というのは,子どものときに思っていたよりもだいぶ「いい加減(子ども的な視点で)」だということがある。

一例として,テレビゲームあるいはPCゲームソフトについて。子どものころ,いわゆる名作と言われるゲームの続編は,多少のブレはあっても当然面白いものだと思っていたことがある。画家や小説家の作品が,基本的には一定のクオリティを保っているのと同じように。

ところが,実際はどうもそうではない。「あの名作の続編なんだから,面白いに違いない!」と意気込んで買って遊んでみたが,つまらない・・という経験がしばしば。具体的なソフト名を挙げることはしないが「え,こんなものなの?」と期待を裏切られ,ひょっとして楽しめない自分の方が悪いのでは?などと自問することもあった。どこの馬の骨とも知れぬゲームであればともかく,名の知れたあのメーカーの,あの名作の続編なのだから,と・・・。

実際には,そのシリーズ自体の路線変更(大抵はマーケティング上の都合によると思われる)に加えて,開発陣の規模・構成の変化,予算やら,クリスマスや夏の商戦に間に合わせるための納期やら,その他極めて多くの要素によって,あるゲームの出来というのは大きく左右される。当然といえば当然だが,大手メーカーになればなるほど,アーティスト的に,満足のいく作品を完成させたうえで世にその価値を問うというスタンスからは乖離してゆき,あくまで企業活動として合理的な判断のうえで各種決定がなされることになる。もっとも,ある条件下における合理的判断の結果として,誰もが認める名作が生まれることもあるわけだが。(ここのところ,ゲームソフトメーカーの内情は詳しくないので,あくまで推察。)

ことほどさように,企業によって世に出される作品・製品は,必ずしもそのクオリティについて,彼らの認識の中であってもベストというわけではない。もちろん,人の命に関わるような製品(食品,自動車,家電製品,医療機器など)については,その安全性については万全を期さねばならないし,実際ほとんどはそうなっていると思う。だが,ソフトウェアや何らかの文章(たとえば調査報告書),学術論文など,多少のバグ,論理の不整合,誤字脱字があっても,それによって製作者の信用が地に堕ちて再起不能になる(あるいは法的に厳しい制裁を受ける)・・という致命的な性質のものではない場合,そのクオリティは他の要素との兼ね合いで犠牲にされることも多いと思われる。

実際に,自分自身が会社勤めをしていたときも,「もう少し粘ればクオリティは向上するのだろうけど・・」と思いつつも,納期や予算その他の都合であきらめざるを得ない場面が幾度かあった。

また,週刊誌に連載されているマンガ作品について,特に連載が長期に及ぶと,以前の設定内容との食い違い・矛盾が生じることがよくある。これもまあ,同じメカニズムによるものだろう。(一部の熱心なファンの中には,こういった矛盾をなんとか説明しようと,インターネットなどで詳細に検討・解釈を行う向きもあるが・・・わかったうえであえて遊びでやっているのでなければ,まあ,意味のないことだろう。)

このように,純粋な子どもからすると時に不可解な「大人の事情」だが・・企業としては,その場その場における合理的な選択の結果ということになる。バグ・ミスの有無やその製品そもそもの出来(ゲームの場合はストーリーやシステムの面白さ)というクオリティと,それ以外の諸々の要素とのバランス。これを見誤った企業はいずれ立ち行かなくなるし,うまく回してゆくことができた企業は繁栄する。

特にコンテンツ系の製品に関しては,デジタルコンテンツ化が進めば進むほど,バグやその他のちょっとしたミスについては,修正パッチの配布等で後日修正を行うのが容易になっている。ともすれば人を傷つける可能性のある「カタチのある製品」と,必ずしもそうではない「コンテンツ系の製品」。発売時に求められるクオリティの差は,今後ますます拡大していくのではないか,とふと思った。

「バイオマス」エネルギー?

バイオエタノールやバイオディーゼル,あるいは間伐材などを用いた木質ペレット・薪を「バイオマスエネルギー」と呼び,化石燃料や,風力や地熱などの自然エネルギーと対比して述べることがよくある。

だが,よくよく考えると,化石燃料すなわち石油・石炭も,太古の昔に地球に生息していた動植物の遺骸がベースになっているわけで・・これらの動植物も,もともとはバイオマスそのもの。化石燃料は,いわば「元」バイオマスエネルギーということになるのではと思うのだが・・。化石燃料はバイオマスに非ず,みたいな言い方は,遥か昔にその生涯を全うして朽ち果て,ずっと地中で眠り続けていた動物・植物が若干不憫というか。

まあ,いわゆる再生可能エネルギーのうち,動植物をベースとするものの呼称としてはいちばん便利なんだろうけど。。

 

人文系研究者(および学生)のPowerPointプレゼン

理系研究者,あるいはビジネス関係者(といっても業界によって多様といえば多様だが)のそれと異なり,明らかに特異な形態に進化(むしろ退化?)してしまっている気がする。。

1)史料のスナップショットや写真など,図をを見せるのみ。あとの内容は全部口で話す

2)とにかく長い文章をそのまま書く。発表者自身の文章もあれば,どこかの引用の場合もある。だいたいにおいて文字が小さすぎて,会場に後ろに座っている人はまず読めないレベル

この人たちは「なぜPowerPointを使うのか」ということを考えたことがないのだろうか。1)であればまだわかるが,それでも,そもそもスライドショーその他のアプリケーションを使えばよいのではないかと思う。さらに,2)となると本当にわけがわからない。このようなスタイルでプレゼンを行って,聴衆は本当に細かい文字の羅列を読めて,内容を理解できているのだろうか・・。言葉が悪いが,少なくともプレゼンの方法については,かなり独善的かつ非効率的のように思えてならない。

自分が学部学生だったときには,「レジュメ」という形でワードで発表資料を準備し,それを印刷してハンドアウトとして配るスタイルが普通だった。資料として配布するのであれば,そこそこ長い文章が入れたとしても文字の大きさは問題にならないし,そもそも後で読むこともできる(プレゼンとしてわかりやすいか否かは別だが)。下手にPowerPointを使わず,このように資料として印刷したものを配るか,いっそ何も使わない方がまだよいのに,と思うことがしばしばである。

少なくとも自分が住んだことのある日本とフランスについては,これらの傾向に当てはまらない人文系研究者(歴史・思想・哲学・文学・社会学)は皆無であった。ひょっとしたら心理学の一部など数量データを扱うところは違うのかもしれないが・・。

いったいなぜこのようになってしまっているのか,誰も何も疑問に感じていないのか。疑問が尽きない今日この頃である。

余談:「PowerPointの使い方がおかしい」ということでいうと,霞が関の役所の資料もだいたいにおいて該当する。彼らはものすごく細かい文字で資料を作成し,それをどこかプレゼンの場で映すでもなく,PDF資料としてWebに載せるか,あるいは印刷したもの「だけ」を配るということをする。「それなら最初からワードを使え」というツッコミが溢れ出てくる経験があった。(あ,霞が関はワードではなく一太郎?ということはパワポではなくJust SLideとかか?)

 

 

「港町」に対する認識の違い

個人的趣味だが,昔からの港町が大好きで,国内外問わず機会があればあちこち立ち寄るようにしている。

先月行ったイタリア旅行の旅程は,ナポリ→アマルフィ→フィレンツェ→ピサ→ジェノヴァ。いずれも観光地として有名だが(ジェノヴァはそうでもないか?),このコースを選んだ理由は「港町めぐり」をするため。最盛期やその影響力にはばらつきがあるが,フィレンツェ以外はいずれもかつて海洋都市として栄えたところである。フィレンツェは,15世紀初めにピサを支配下に置いてそのシーパワーを吸収した(といってもピサの影響力は既に斜陽だったらしいが)ため,ちょっと興味があったので立ち寄った。

ナポリ,ジェノヴァは今でも港町としても栄えており,いわゆる「港町」気分を満喫できた。他方,アマルフィは,かつての海洋都市国家の面影はほとんど失せ,完全にリゾート地化しておりやや残念(どうやら地震か何かの地殻変動でかつての港湾を形成していた箇所は海に沈んでしまった模様)。さらにピサも,いまや斜塔の一本足打法で勝負しているせいか,事前にかなり詳しく調べていないと下に書く理由により港町だったということすら気づかず,昔の栄光に思いを馳せることすら難しくなっている有様。

ナポリ,ジェノヴァ,それにアマルフィは,都市が海洋に直接面しており,日本人が「港町」と言われてすぐ思い浮かぶような景観を有している。だが,ピサは海洋には面しておらず,リグリア海に出るには数キロは川を下らねばならない。言われなければ,ただの川が流れる中都市であるように映る。

このように,「海に面していない港町」は,日本人の感覚からするとどうやら珍しいようだ。日本の港町は,ほとんどは海に直接面している。しかしながら,ピサのように幾らか河川を遡ったところにある港町は,欧州では珍しくないようだ。(なお,話がややこしくなるので,河川輸送の拠点だったパリや,ライン川,ドナウ川沿岸諸都市はここでは「港町」に含めず,あくまで海洋輸送の拠点であった都市に話を絞ることにする。)

自分の行った限りで言うと,まずスペインのセビリャがそうだし,いまはラトビアの首都になっているリガもそうだ。いずれも名だたる港湾都市として歴史に名を馳せている。また,欧州ではないが米国のニューオーリンズも,同様にミシシッピ川沿いに長々と積み下ろし設備や倉庫,諸々の加工プラントが並んでいるのが印象的だった。

「海に面していない港町」,日本以外ではわりと普通なのか,あるいは上に挙げた都市もやはり例外的なものなのか。(人文)地理学などの研究成果で整理されていたりしないものだろうか。。

 

 

 

 

ブローデル『地中海』 その1

ブローデルの地中海を読んでのメモ。

1572年(レパントの海戦のすぐ後)にオスマン・トルコがキプロス島をヴェネツィアから奪った際に,ほとんどのギリシャ人(ギリシャ正教徒)はヴェネツィアに協力せず,またトルコ領になった後は,輸出産品(綿花,ワイン,砂糖)の生産に従事させられていたヴェネツィア支配期よりむしろ住民の生活水準は上がったそうな。

ヴェネツィア大好きな塩野七生の小説を読むと,異世界たるトルコに飲みこまれていくキリスト教文化圏・・的な描き方がされているが,実際はそんな宗教対立に還元できるような単純な話ではなかったという話。

あと,シチリア島って以前は地中海世界における主要食料供給地という位置づけだったんだね(カナダやアルゼンチンなどの新大陸諸国のような)。恥ずかしながらまったく知らなかった。今でこそレモンやオレンジ,ワインの名産地というイメージだが。。

アンパンマンマーチ

ものすごくシンプルだけれど,結局はこういうことだよな・・という気がしてくる。「愛と勇気『だけ』が友達・・」の部分がよくネタにもされるが・・「最後に頼るべきは他人そのものではなく,他人を愛し愛される自分自身,その自分を未来向けて奮い立たせててくれる勇気なんだ」と言っているのだと,個人的には解釈している。

(ここに歌詞を載せたりリンクを貼ったりするといろいろ面倒なので,興味があれば「アンパンマンマーチ」で検索してください。)

伝聞だが,東日本大震災の時,とある避難所で子どもたちが泣き止まないのでこのアンパンマンマーチを流したところ,子どもは泣き止んだけど逆にその歌詞を聞いた大人たちが涙ぐみはじめた,という話もある模様。