日々思うこと

日本在住の研究者です(仕事場を移り、日本に戻ってきました)

「バイオマス」エネルギー?

バイオエタノールやバイオディーゼル,あるいは間伐材などを用いた木質ペレット・薪を「バイオマスエネルギー」と呼び,化石燃料や,風力や地熱などの自然エネルギーと対比して述べることがよくある。

だが,よくよく考えると,化石燃料すなわち石油・石炭も,太古の昔に地球に生息していた動植物の遺骸がベースになっているわけで・・これらの動植物も,もともとはバイオマスそのもの。化石燃料は,いわば「元」バイオマスエネルギーということになるのではと思うのだが・・。化石燃料はバイオマスに非ず,みたいな言い方は,遥か昔にその生涯を全うして朽ち果て,ずっと地中で眠り続けていた動物・植物が若干不憫というか。

まあ,いわゆる再生可能エネルギーのうち,動植物をベースとするものの呼称としてはいちばん便利なんだろうけど。。

 

人文系研究者(および学生)のPowerPointプレゼン

理系研究者,あるいはビジネス関係者(といっても業界によって多様といえば多様だが)のそれと異なり,明らかに特異な形態に進化(むしろ退化?)してしまっている気がする。。

1)史料のスナップショットや写真など,図をを見せるのみ。あとの内容は全部口で話す

2)とにかく長い文章をそのまま書く。発表者自身の文章もあれば,どこかの引用の場合もある。だいたいにおいて文字が小さすぎて,会場に後ろに座っている人はまず読めないレベル

この人たちは「なぜPowerPointを使うのか」ということを考えたことがないのだろうか。1)であればまだわかるが,それでも,そもそもスライドショーその他のアプリケーションを使えばよいのではないかと思う。さらに,2)となると本当にわけがわからない。このようなスタイルでプレゼンを行って,聴衆は本当に細かい文字の羅列を読めて,内容を理解できているのだろうか・・。言葉が悪いが,少なくともプレゼンの方法については,かなり独善的かつ非効率的のように思えてならない。

自分が学部学生だったときには,「レジュメ」という形でワードで発表資料を準備し,それを印刷してハンドアウトとして配るスタイルが普通だった。資料として配布するのであれば,そこそこ長い文章が入れたとしても文字の大きさは問題にならないし,そもそも後で読むこともできる(プレゼンとしてわかりやすいか否かは別だが)。下手にPowerPointを使わず,このように資料として印刷したものを配るか,いっそ何も使わない方がまだよいのに,と思うことがしばしばである。

少なくとも自分が住んだことのある日本とフランスについては,これらの傾向に当てはまらない人文系研究者(歴史・思想・哲学・文学・社会学)は皆無であった。ひょっとしたら心理学の一部など数量データを扱うところは違うのかもしれないが・・。

いったいなぜこのようになってしまっているのか,誰も何も疑問に感じていないのか。疑問が尽きない今日この頃である。

余談:「PowerPointの使い方がおかしい」ということでいうと,霞が関の役所の資料もだいたいにおいて該当する。彼らはものすごく細かい文字で資料を作成し,それをどこかプレゼンの場で映すでもなく,PDF資料としてWebに載せるか,あるいは印刷したもの「だけ」を配るということをする。「それなら最初からワードを使え」というツッコミが溢れ出てくる経験があった。(あ,霞が関はワードではなく一太郎?ということはパワポではなくJust SLideとかか?)

 

 

「港町」に対する認識の違い

個人的趣味だが,昔からの港町が大好きで,国内外問わず機会があればあちこち立ち寄るようにしている。

先月行ったイタリア旅行の旅程は,ナポリ→アマルフィ→フィレンツェ→ピサ→ジェノヴァ。いずれも観光地として有名だが(ジェノヴァはそうでもないか?),このコースを選んだ理由は「港町めぐり」をするため。最盛期やその影響力にはばらつきがあるが,フィレンツェ以外はいずれもかつて海洋都市として栄えたところである。フィレンツェは,15世紀初めにピサを支配下に置いてそのシーパワーを吸収した(といってもピサの影響力は既に斜陽だったらしいが)ため,ちょっと興味があったので立ち寄った。

ナポリ,ジェノヴァは今でも港町としても栄えており,いわゆる「港町」気分を満喫できた。他方,アマルフィは,かつての海洋都市国家の面影はほとんど失せ,完全にリゾート地化しておりやや残念(どうやら地震か何かの地殻変動でかつての港湾を形成していた箇所は海に沈んでしまった模様)。さらにピサも,いまや斜塔の一本足打法で勝負しているせいか,事前にかなり詳しく調べていないと下に書く理由により港町だったということすら気づかず,昔の栄光に思いを馳せることすら難しくなっている有様。

ナポリ,ジェノヴァ,それにアマルフィは,都市が海洋に直接面しており,日本人が「港町」と言われてすぐ思い浮かぶような景観を有している。だが,ピサは海洋には面しておらず,リグリア海に出るには数キロは川を下らねばならない。言われなければ,ただの川が流れる中都市であるように映る。

このように,「海に面していない港町」は,日本人の感覚からするとどうやら珍しいようだ。日本の港町は,ほとんどは海に直接面している。しかしながら,ピサのように幾らか河川を遡ったところにある港町は,欧州では珍しくないようだ。(なお,話がややこしくなるので,河川輸送の拠点だったパリや,ライン川,ドナウ川沿岸諸都市はここでは「港町」に含めず,あくまで海洋輸送の拠点であった都市に話を絞ることにする。)

自分の行った限りで言うと,まずスペインのセビリャがそうだし,いまはラトビアの首都になっているリガもそうだ。いずれも名だたる港湾都市として歴史に名を馳せている。また,欧州ではないが米国のニューオーリンズも,同様にミシシッピ川沿いに長々と積み下ろし設備や倉庫,諸々の加工プラントが並んでいるのが印象的だった。

「海に面していない港町」,日本以外ではわりと普通なのか,あるいは上に挙げた都市もやはり例外的なものなのか。(人文)地理学などの研究成果で整理されていたりしないものだろうか。。

 

 

 

 

ブローデル『地中海』 その1

ブローデルの地中海を読んでのメモ。

1572年(レパントの海戦のすぐ後)にオスマン・トルコがキプロス島をヴェネツィアから奪った際に,ほとんどのギリシャ人(ギリシャ正教徒)はヴェネツィアに協力せず,またトルコ領になった後は,輸出産品(綿花,ワイン,砂糖)の生産に従事させられていたヴェネツィア支配期よりむしろ住民の生活水準は上がったそうな。

ヴェネツィア大好きな塩野七生の小説を読むと,異世界たるトルコに飲みこまれていくキリスト教文化圏・・的な描き方がされているが,実際はそんな宗教対立に還元できるような単純な話ではなかったという話。

あと,シチリア島って以前は地中海世界における主要食料供給地という位置づけだったんだね(カナダやアルゼンチンなどの新大陸諸国のような)。恥ずかしながらまったく知らなかった。今でこそレモンやオレンジ,ワインの名産地というイメージだが。。

アンパンマンマーチ

ものすごくシンプルだけれど,結局はこういうことだよな・・という気がしてくる。「愛と勇気『だけ』が友達・・」の部分がよくネタにもされるが・・「最後に頼るべきは他人そのものではなく,他人を愛し愛される自分自身,その自分を未来向けて奮い立たせててくれる勇気なんだ」と言っているのだと,個人的には解釈している。

(ここに歌詞を載せたりリンクを貼ったりするといろいろ面倒なので,興味があれば「アンパンマンマーチ」で検索してください。)

伝聞だが,東日本大震災の時,とある避難所で子どもたちが泣き止まないのでこのアンパンマンマーチを流したところ,子どもは泣き止んだけど逆にその歌詞を聞いた大人たちが涙ぐみはじめた,という話もある模様。

語学能力

海外にいる日本人同士,特に若い人たちの中では,語学(当該国の母語)の出来不出来だけで互いの能力を評価する傾向が強い気がする。

高校,大学までのように,試験などの成績で自分の能力を「定量化」して他人と比較することが,大学院・社会人になるとできなくなる。とはいえ,多少話したくらいでその人の持つ知識・能力の優劣を判断できるわけでもない。日本国内だと学歴や勤務先などが自尊心あるいはコンプレックスの元になるのだろうが,海外だと能力の評価指標として語学が物を言うことが多いように感じる。すなわち,語学のうまい・下手だけでその人の能力全体を判断する(というより,要は自分より語学ができない人を下に見る)傾向が,少なくとも海外にて留学・ワーホリ中の日本人には強い。ともかく,「彼はあまりXXX語ができないから・・」云々と他人を評価するような言葉を聞くたびに,違和感を感じる今日この頃。

補足:上述の傾向は,その国にずっと住んでいる人たちには当てはまらず,あくまで数年くらいの滞在年数の人たちの間で特に顕著。

インターネット評論の世界

Twitterやブログ,その他コメント欄での「プチ評論家」大量発生現象。これはやはり,マズローの言うところの「自己実現欲求」「尊厳欲求」あたりがなかなか満たされず,こじらせてしまっているゆえなのだろうか・・。ただの情報発信であればよいが,他の誰かを批判・否定して一席ぶつ動きが大きいのが気になるところ。

玉石混交の情報,評論,言説をどのようにふるいにかけるか,ただ人気でさえあればよいのか・・等。以前のマスメディア主体の世界の方がよかったとは決して思わないが,個々人のリテラシーがないと,それこそ言論カオスな世界に突入してしまう気がする。実際,キャッチーでわかりやすい説明でさえあれば,中身としてはくだらない(あるいはとんでもない)ことが書かれていても,平気でSNSなどでシェアされて,あちこちに出回るという傾向が最近強くなっている気がする。